楽園を追い出されてから、人生が始まった

旧約聖書『創世記』に登場する、アダムとイヴの物語。

蛇にそそのかされて、食べてはいけない実を食べてしまい、楽園を追放される。
人間の堕落を描いた、宗教的な物語として知られています。
でも、私はこの物語を知ったとき、これって、私たち人間の成長そのものじゃない?と思ったのです。

二人が暮らしていたエデンの園は、何不自由のない世界でした。
園を耕し、守る仕事はありましたが、食べ物には困らない。神様の言うことを聞いていれば、安心して暮らせる平和な世界です。

ただし、一つだけ禁止事項がありました。
「善悪の智慧の木の実だけは、食べてはいけない」

だったら、最初からそんな木を置かなければいいのに! 
と思うのですが、物語には、なぜかこういう禁止事項がつきものです。

開けてはいけない箱。
振り返ってはいけない約束。
食べてはいけない実。

そう言われると、どうしても気になってしまう。言われなければ気にもしなかったのに。

「あの実、そんなにすごいの?」
「食べたら何が起きるの?」
「ひょっとして、ものすごくおいしいんじゃない?」

そこへ蛇が登場!
蛇にそそのかされ、イヴの好奇心がむくむくと膨らみ、彼女に促されて、アダムも実を食べる。

さて、実を食べた二人はその後どうなったのか。
さぞかし素晴らしい知恵を手に入れたのかと思いきや、最初に気づいたのは、なんと自分たちが裸だということでした。
「大変! 私たち、裸じゃない!」
いやいや、最初っから裸だったでしょう(笑)。

でも、ここが面白いところです。
裸という事実は何も変わっていないのに、その解釈が変わってしまった。

知恵とは、物事を分け、区別し、理解する働きでもあります。
だから、この木は善悪の智慧の木と呼ばれているのでしょう。
正しい、間違っている。
見せていい、見せてはいけない。
そして、自分と自分以外。

こうして「私」という小さな自意識が生まれると、自分がどう見られるかを気にするようになり、恥ずかしさや不安、そして苦悩が生まれるのです。

さらに面白いのは、その後です。
神様に問い詰められると、アダムはイヴのせいにし、イヴは蛇のせいにする。
知恵を手に入れた人間は、早速その知恵を言い訳に使い始めたのです。

なんということでしょう!
自分という意識が生まれた途端、自分を守りたい気持ちと、損得の計算が生まれる。
嫌われたくない。損をしたくない。自分は被害者だと言いたい。

悪いのは誰だ!
そして、ついに二人は楽園を追放されます。
私は、この物語をただ宗教的な話として読むのは、もったいないと思うのです。

たとえば、親に守られて暮らしている幼い子ども。
住むところも食べるものも、親が用意してくれます。親の言うことを聞いていれば、まあ、何とかなる。
けれど、成長するにつれ、親のルールが窮屈になってきます。
「あれをしなさい」
「これはやっちゃダメ」

もう、うるさいなあ!
外にはもっと面白い世界があるはず。
自分の好きなようにやりたい!
そうして子どもは、親の世界から飛び出そうとするわけです。

ところが、いざ外に出てみると、びっくりします。
今まで当たり前だったものが、当たり前じゃなかった。
ご飯も住むところも、自分で何とかしなくちゃいけない。自分から伝えなければ、誰も気づいてくれない。
ええっ、そこまで自分でやるの?

自由は欲しかったけれど、保護までなくなるとは思っていなかった。
そもそも、保護されていることが当たり前すぎて、そのありがたさにも気づいていなかったのです。

自由は欲しい。でも、スポンサーは引き続きよろしく!
どうやら、そんな都合のいい話だったらしい(笑)。
ところが、自由を手に入れた途端に、スポンサー契約は終了。

そこで初めて、失ったものの大きさに気づくわけです。
「ひどい! 見捨てられた!」
自分が自由を求めて飛び出したことなど、すっかり忘れてしまう。

こうして、自分の選択だったはずの出来事が、いつの間にか「追い出された物語」に変わっていくのです。
でも、これって子どもだけの話でしょうか。

結婚生活の安定は手放したくないけれど、夫の言うことは聞きたくない。
会社の給料や福利厚生は欲しいけれど、社長のことは気に入らない。
私たちは、大人になっても似たようなことをやっているのかもしれません。
保護されていることは当たり前。
制約されることだけが不自由。
なかなかややこしいものです。

さて、エデンの園を追放されたアダムとイヴに戻りましょう。
アダムには汗を流して食べ物を得る生活が、イヴには出産の苦しみが告げられます。
これまで与えられていたものを、今度は自分の力で生み出さなければならない。

しかも、何をするにも時間がかかるのです。
種をまき、育て、収穫する。
子どもを宿し、産み、育てる。

何かを生み出すには、自分自身が動き、時間とエネルギーを使わなければならない。
思っただけでは、何も生まれません。
ときには失敗し、痛い思いもしながら、少しずつできることを増やしていく。

私は、この物語を単なる罰の物語だとは思わないのです。
何もかも与えられていた世界から、自分の力を使って何かを生み出す世界へ。

それは、個として生きること、創造することの始まりだったのではないでしょうか。
人間は、楽園を追い出されてしまった。
なんという悲劇!

でも、ちょっと待って。
それは悲劇ではなく、必然なんじゃないか。

アダムとイヴの人生は、そこから始まったのだから。

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