もうすぐ85になる父は、80を越しても現役で仕事をしていた。
定年のない仕事ということもあるが、父の頭には引退とか、老後はのんびりという考えはなかった。
それに、いくつになっても、父に仕事を依頼してくれる人がいたのだ。
しかし、81のとき、とうとう引退を決めた。
それは、病気の進行がかなり進んだためだった。
その病気とは緑内障。
緑内障は、視神経に問題がおきる病気だ。
手術を受けたが、徐々に症状が進行し、さすがの父も、仕事を続けるわけにはいかないと決断した。
本当に、残念だったろう。私にいろいろ整理をして欲しいと言ってきた。
そんな父は、妻(私の母)に先立たれて以来、一人暮らしを続けていた。
子どもに世話をかけるのを好まない昭和世代の頑固な父は、一人暮らしと仕事を絶対に手放さなかった。
しかし、さすがにこの頃、一人で何もかもすることが難しくなってきた。
自然と父と接する時間が増えていった。
先日、実家へ向かう電車の中で20代らしい男性二人の会話がふと耳に入った。
「60になったら、即効で仕事なんてやめてやるよ。一生働き続ける人生なんていやだね」
「でも、金をどうするかが問題だ」
「ああ、自由に遊んで暮らすために、どうやって不労所得を得るかだな」
それを聞いていて、昔の自分を思い出した。
「目に見えないことこそ、大切なこと」
「お金だけが人生ではない。人間には、もっと他にやるべきことがあるはず」
私はそんな風に考える夢見る夢子だった。
私の頭の中はこうあるべきという理想で一杯だった。
そして、理想通りでない周りに不満を募らせていた。
そんな私に、父が冷たく言い放ったものだ。
「おまえは哲学者か。哲学じゃ、食っていけないぞ」
そんなロマンのかけらもないことを言う父を、あの頃、激しく嫌っていたものだ。
でも……。
結局、ロマンを生きたのは、父の方だったのかもしれない。
父は、若い頃の私のように、嫌々働いていなかった。
情熱を込めて、ただ生きたのだ。
そういえば、朝も誰よりも早く起きて、勉強していた。
仕事に関係ないことも、本で一生懸命学んでいた。
そんな父を「何の役に立つの?」と内心バカにしていたものだった。
父は責任をたくさん負っていた。
だから、理想なんて語る時間はなかった。
苦労や我慢も込み込みで、仕事をやめるという発想はなかった。
私が哲学者気取りをできたのも、父がいたからだ。
若い頃は自分探しに熱中し、やりがいのある仕事をずっと探し続けた。
だけど、理想の仕事なんてものには出会えなかった。
それはそうだろう。
そもそも、生活力もなく、責任感もない人間は社会のお呼びではない。
あの頃、働くことを「お金のためにイヤなことを我慢してやる」と勝手に定義づけていた。
だから、嫌な仕事をやめて早く自由になりたかった。
子どもの頃、一人悩んでいたつもりだったが、
なんと、我儘で贅沢で怠慢な人間だったのだろう。
それが可能だったのは、両親や周りの人や社会が支えてくれていたからだ。
今、父の言葉は含蓄深い。
横に座って、ただ雑談しているだけなのに、賢者の言葉のように胸に響く。
「どうして、もっと早くそれを教えてくれなかったの?」と言いたくなる。
いや、いや、父は昔から変わっていない。
あの頃は私の眼と耳がふさがっていただけだ。
そして、「法哲学を学びたかったなあ」という。
ああ、父こそ哲学者だったのだ。
それにしても、父と静かに語り合う時間が来るとは思ってもみなかった。
結局、今になってわかったことは、仕事に関しても、生き方に関しても、親の言うことを聞いておけばよかったということ。
遊びはすぐに飽きてしまう。
誰からも必要とされない日々は虚しい。
理想を語っても、現実化できなければ意味がない。
理想を現実化するために、いかに一歩目を始めるか、そして、二歩目、三歩目を続けていくか。
なにがあっても、習慣になるまで継続し、あれこれ迷わない。
地道に続ける。
それが、情熱をもって生きるということなのか。
昭和の男が、背中で教えてくれていた。