久しぶりに1998年のアメリカ映画『トゥルーマン・ショー』を観ました。
この映画は、自分の人生そのものが、テレビで仕組まれた壮大なリアリティーショーと知らずに生きている男(トゥルーマン)の物語です。
彼の家族も友人も、誰も彼もが俳優であり、番組プロデューサーがつくった設定(シナリオ)の範囲内で動いています。
主人公だけが「本物の人生」と信じているわけで、それが生み出す予定調和を超えた展開が視聴者を惹きつけるのです。
トゥルーマンは、平凡な毎日を送っていますが、昔、あこがれていた女性を忘れられずにいます。
そして、フィジーへ行きたい、小さな街から出て冒険したいという夢を持っています。
しかし、リアリティショーを続けるには、そんな彼を抑えなければなりません。周りの人(俳優たち)は、セット(小さな街)から彼が出ていかないように、安定した生活で満足するべきだと陰に陽に邪魔をします。
番組プロデューサーは、トゥルーマンに巧妙に恐怖(トラウマ)を植え付け、外に行けないようにしているのです。
そんなわけで、違和感に苦しみながらも、彼は小さな街から抜け出せないでいます。
もちろん映画の最後では、恐怖に打ち勝ち、主人公はキケンを犯して旅立つことに成功しました。しかし、彼が真実を知ることによって、トゥルーマン・ショーは幕を閉じるしかありません。
固唾を呑んで成り行きを観ていた視聴者は、主人公の勇気ある行動に歓声を上げますが、その感動もすぐに色あせ、次なる刺激(感動)を求めて新しい番組を探し始めるのでした。
う〜ん。23年も前の映画なのに、現代に通じるすごく意味深な映画でしたね。
まさに人間は、与えられたもので満足している巨大なトゥルーマンショーの中に生きてきたように感じます。
私は昔、ジャーナリストは真実を伝えることが仕事なのだと思っていました。でも、そんなことありませんね。
すべては、「意図」をもって編集されています。それがよくわかるようになったのは、SNSの発展で、個人でも情報が発信しやすくなったこと。つまり、フェイクニュース(トゥルーマンの違和感)に気づきやすくなったのです。
同じニュースなのに、いろいろな角度から語ることで全く違う話になります。だから本当に、受け身の視聴者のままではキケンなのです。
ところで、私たちは今、「自粛」を求められています。
これはある意味、大きなチャンスなのかもしれません。
トゥルーマンのように目覚めて新しい未来を創造するか、このまま視聴者となって受動的に感情を動かし続けるか、本気で決めるタイミングだからです。
恐怖や劣等感(つまり過去)を解消するための安直な未来ではなく、本当に生きる喜びを味わう未来を創造するために、世界をいったん小さくしているのです。
視聴者は、巨大なヒマをもてあまし、感情の世界を求めています。だから、番組プロデューサーが必要であり、必ずコントロールしてくる存在(この場合は番組プロデューサー)をつくってしまうのです。
逆もしかりで、番組プロデューサーは勝者のようでありながら、彼もまた視聴者を必要とし、スポンサーに操作されます。
トゥルーマンは、その輪から一歩抜け出しました。
感情脳の支配から脱出し、過去のトラウマを土台とした未来で満足することをやめたのです。これは、ラクを捨て、目覚めること(自分が何者かを知ること)を決意したということです。
こう決めた人だけが、創造主(クリエイター)として生きられる可能性があるのかもしれません。
結局のところ、この世界が自分の意識の投影にすぎないと気づくことなしに、新しい未来は創れないのです。
「リアル」って何でしょう??
本物のショーを始める時代が、すぐそこに来ています。