先日、人気アニメ『ち。―地球が動く―』を最終話まで一気に観ました。
物語の舞台は15世紀の中世ヨーロッパ。
「地球が動く」という当時は異端とされた仮説に魅せられた人々が、命をかけて知をつなぎ、バトンを渡していく、そんな群像劇です。
物語の中でひときわ心に残ったのは、登場人物たちが迷いのなかでふと宙を見上げ、その圧倒的な美しさに息を呑む瞬間です。
その絶対的な美が、彼らの背中をそっと押すのです。
なかでも、代闘士オクジーと同僚グラスのエピソードは、印象的でした。
無学で貧しいオクジーは、地上に希望を持てず、死後に天国へ行くことだけを願って、日々をただ消費していました。
一方のグラスは、疫病で家族を全員失ったにもかかわらず、夜空の火星の位置を観測し続けていました。
そこに「天の完璧な秩序」を見い出していたからです。
彼にとって、亡き家族がいるはずの天国が、美しい法則で運行されているという確信が、唯一の救いだったのです。
しかし火星が「逆行」し始めたとき、彼の心は砕かれます。
天は完璧であるはずなのに、なぜ乱れるのか?
それは、彼のわずかな希望も打ち砕いたのです。
その問いに答えたのが、地動説を信じる異端の天文学者の言葉でした。
「天国などなくても、この地上は、生きるに値する何かだ」
この一言が、オクジーとグラスの内側を静かに揺さぶりました。
死後に報われるという受動的な信仰から、自分の人生を自分の手で動かすという能動の視点へと、彼らの意識は反転していったのです。
TAW理論は、宇宙の軌道のように、美しく、シンプルな法則を提示します。
「意識が現実化する」
一元論の世界です。
けれど、私たちの現実は、しばしば偶然や理不尽に満ちて見えます。
二元の世界のルールで動いているからです。
この「美しさ」と「不条理」のあいだに、橋をかける方法があるのか。
TAW理論をまとめた一色真宇先生は、根本法則を、私たちがいかに誤って受け取ってしまうのかを、明晰に解き明かしています。
ただ、その理論がどれほど美しかったとしても、地に足のついた日常に落とし込むには、やはり時間がかかるのです。
天体がリズムを刻むように、人間の成長にもリズムがあるからです。
私たちの感情は、理論の通りには動いてくれません。
「自分は悪くない」
「私は関係ない」
そう言い聞かせながら、過去の記憶にしがみつき、同じ言い訳をくり返してしまうのです。
けれど、心のどこかではもう知っているのです。
自分こそが、現実の創造者であるということを。
だからこそ、言葉にできない罪悪感を抱えていることも。
記憶が変わるには、何らかの大きな観念の変化が必要です。
それにはやはり、人の心のしくみを深く理解して組み立てられた、実践的なシステムが必要なのです。
本当の変容は、アニメ「ち。」のように何代にもわたるバトンが必要なものです。
「わかった」先に新たな「わかった」が待っている。
そう考えるとちょっと気が遠くなります。
でも、火星の逆行は見かけ上のことで、実際には決して後戻りしていません。
それと同じように、私たちの「前より悪くなった」「成長が止まった」と感じる瞬間も、実は変化の流れの中にある、一時の錯覚なのかもしれません。
そして私は、思うのです。
この地上は、ほんとうに、美しい。
ただ、それを本気で知るには、信じることと、疑うことのあいだで、考え続けること。
その営みの先に、「この世界は、生きるに値する素晴らしい何かだ」と、心から言える日がくるのだと思うのです。