一般的に、愛と自由はどこか両立が難しいというイメージがあります。
水と油とまでは言わないものの、自由を優先すると、愛が取り残されてしまうような、逆に、愛を優先すると、自由が減るような。
あちらを立てればこちらが立たず、そんなイメージがあるわけです。
それで、本当にやりたいことを追求する人は、結婚や家族をあきらめたりします。
これは、愛は犠牲(時間)を要求し、自由は縛られることを嫌うからなのだと思います。
さて、突然一元論の話になりますが、一元論とは「この世界で感知するすべては、自分の意識がとらえているものであり、すべては自分の意識がうみだしたもの、自分という意識がないときはこの世界は存在しない」といったような考えです。
東洋哲学では、このことを延々と探究しているわけです。
この世界には自分しかいない。すべてが一つ。
だけど、それを認識(言語化)したとたん、一つではなくなってしまう。
う~ん。もどかしいですね。
言葉というナイフで、一元を切り分けていくと存在が生まれます。
境界が生まれるのです。
「愛」も「自由」も概念です。意味(定義)が必ずあります。
つまり、愛と自由が両立できないなら、両立できない定義になっているはずです。
できないということは、未熟な定義に違いありません。
例えば、こんな風に。
「自由」→ 「時間に縛られないこと、責任を負わないこと」
「愛」 → 「永遠にくっついていること、無条件に受け入れること」
これでは、「愛」と「自由」はともにいられません。ケンカ別れでしょう。
狭く幼い定義をたくさん持っていると、それでけで人生は制限されるんです。
愛の定義の間違いが、ほとんどの苦しみの原因。
もちろん、その他の言葉も、チェックが必要です。
では、「愛」と「自由」の言葉の定義をこんな風に成長させたらどうでしょうか。
「自由」→ 「選択できること」
※選択には責任が伴う。能力がある人は、多くの選択肢を持つ。つまり、たくさんの責任を負える人は多くの選択肢を持てる(結果、愛ももてる)。
「愛」 → 「人を成長させること」
※人を成長させるということは、人の能力を解放すること。人が自由になること。それは、自分自身の能力を解放すること(結果、自由ももてる)。
どちらの穴からトンネルを掘っても、「愛」と「自由」はやがて出会えるのです。
一元の中に言葉を持ち込むことで、私たちは世界を体験します。
その世界とは、つまり、言葉の定義そのもの。
言葉の定義に無自覚だと、いろいろな困難をつくってしまいます。
は〜、言葉も定期的にバージョンアップが必要だったんですね。
愛と自由は矛盾しません。
言葉(の定義)に騙されないようにしましょう。