料理研究家土井善晴さんの著書に『一汁一菜でよいという提案』がある。
日常は一汁一菜で十分だというのだ。
その土台となるのが、日本古来からのハレとケの考え方。
ハレはお正月や結婚式、お祭りなど、特別な日。
特別な日には晴れ着を着て、ご馳走を食べる習慣が昔からある。
ケは普段通りの日常。淡々と日々の仕事や暮らしを繰り返す。
現代は、世界中の美味しい食べ物があふれかえり、毎日がハレの日の食事になってしまった。
それが肥満や病気の一因になっているという。
また、忙しい人が増えているのに、品数を作らなくてはいけないという心理的プレッシャーで、かえって料理が嫌いな人が増えている。それでは本末転倒だというのだ。
だからこそ、日常は、「一汁一菜」を基本にすればよい。
日常の食事は、家族の健康を守るためのもの。
毎日、いろいろなメニューを考える必要はないのだ。
一汁一菜なら、丁寧に作ることができる。太らないし、病気にもなりにくい。
働いている人も、気持ちが軽くなる。
気持ちが軽くなるとどうだろう、食材を吟味する余裕も生まれる。
それに、ケの日だからといって、一汁一菜以外食べてはいけないということではない。
心に余裕があるなら、もう一品つくることもできちゃうのだ。
それにしても、著者は一流の料理研究家だ。
手の込んだ和食もつくることができる。
そんな人が、あえて一汁一菜でいいというところがミソ。
作れるけど作らないのと、作れないから作らないのでは雲泥の差。説得力が違う。
なんでも極めると、シンプルになっていく。
(するとハレの日が本当に貴重になる)
何でも、メリハリ(ゆるむことと貼ること)が大事なのだ。
あえて極端に考えることによって、本当に必要なものがわかるようになる。
料理の話がしたいわけではない。
ハレとケのバランスは、人生のあらゆる面で役に立つのだ。
このバランスが崩れたとき、心のバランスも崩れ、人生がうまく行かなくなる。
毎日が、リオのカーニバルだったらどうだろう。
毎日、興奮して感情をたっぷり使っていたらどうなるだろう。
きっと、すぐにつまらなくなる。
ハレの日がハレの日の役割を果たさなくなる。
日常とは繰り返しだ。
この繰り返しによって、私たちの肉体も心も作られていく。
日常こそ、生産の時間であり、素晴らしい気づきに満ちている。
平凡は奇跡が繰り返されたものだなんていうけれど、
本当、平凡は最高にイカしている。
繰り返される思考、行動、習慣が人生をつくっていく。
同じことをやっているようで確実に変化している。
だから、スタートの考え方がとても大切なのだ。
土台が間違っていたら、それがそのまま人生になっていく。
日常こそ、意識的に丁寧に生きたい。ケの日の大切さ。
そして、そんな日々の中で、誰かのハレの日に立ち会えることは幸運だ。
日常をしっかり生きていれば、きっとその先に、全く新しいハレの日が待っている。
人生の折り返し地点で、ちょっとわかってきたこと。
ああ、本当に繰り返すこと、継続、当たり前ってすごいなあ。
私はもう一度原点に戻ろうと思う。