はじめまして。僕は、鈴木治といいます。
父のことを知っている人が読んでくれるかわかりません。
でもたった一人でも、父のことを覚えている人がいるかもしれない。そう思ったので、書いてみようと思います。自己満足とお許しください。
父が亡くなりました。80歳でした。とても厳しい父でした。父を憎んだこともあります。
でも、僕の恩人は、まぎれもなく父でした。歩いたり、笑ったり、恋をして家族を持ったり、働いたり、そんな当たり前のことができるようになったのは、全部父のお陰です。
父は小学校の教師でした。本当に子どもが大好きで、教師の仕事に情熱を燃やしていました。
だけど、父は、僕のために天職をあきらめたのです。ずいぶん辛い決断だったと思います。でも、あの頃の僕は、父を恨むことしかできませんでした。
晩年の父は幸せだったと言いたい。父の人生は幸せだったよと、父が愛した教え子の皆さんにお伝えしたかったのです。
………………
SNSに書きこまれたメッセージ。誰かのシェアのシェア。どこでどうつながったのかはわからないけれど、確かに私はこのメッセージを受け取った。
「鈴木先生……」
走馬灯のように、あの頃が蘇った。
鈴木善一先生を私は大好きだった。
私が小学5年生の時の担任だったから、もう40年近く前のことだ。
鈴木先生は、病気で担任を降りた先生の代わりに、別の学校から赴任してきたのだが、どの先生とも明らかに違っていた。
外見は『不思議の国のアリス』に出てくるハンプティダンプティにそっくり。つまりは、背が低くどっしりしていた。大学まで柔道をしてきたそうだ。
豪放磊落な気性というか、声が大きく、細かいことにこだわらない大らかな先生だった。
私のかよった小学校は、生徒を管理しようとする学校だった。何かあるたびに反省会をする。
反省会の流れはこうだ。
運動会や何かの会が終わった後、必ずグループ(班)ごとに分かれて、他のグループの点検をする。つまり、生徒同士に点数をつけさせて競わせるのだ。
点数が一番悪かったグループはみんなの前に出てきて反省する。反省会で、反省が足りないと判断されると罰を受ける。罰は、グループごとの場合もあるし、一人の生徒に対する場合もある。
一人班という罰が一番重かった。問題行動をした生徒に与えられる罰だったが、先生の横に一人の席を作り、他の生徒と対面しながら勉強するのだ。給食も一人で食べる。これはかなりキツイ。
反省会で問題の人物を言わされることもあった。言わないと会自体が終わらない。
苦し紛れに「〇〇君が挨拶のとき動いていました!」などと、どうでもいいことを言う子もいた。生徒同士で見張らせ、紙に嫌いな子の名前と欠点を書かせたりもした。
減点主義。だから、私は学校というものが好きではなかった。先生一人一人は、決して悪い人たちではなかったが、集団となると個性がなくなる。どうにもこうにも反省会はいただけなかった。
私は学校というシステムになじめず、一人本を読んで過ごすことが多かった。
そんな雰囲気の中で、鈴木善一先生は、あきらかに異質だった。
いつものように反省会をしようとする生徒に、「そんなくだらんことするな!」と鈴木先生は、一喝したのだ。
生徒たちの目が驚きとともに、一瞬で輝きはじめた。
「子どもはもっと外で遊べ! 身体をつくれ!」「もっと本を読め!」
鈴木先生が言いたいことは二つだった。
〇健康をつくるために、もっと身体を動かしなさい。
〇視野を広げるために、もっと本を読みなさい。
柔道をしてきた先生は、武術の心得「心技体(しんぎたい)」を重んじていた。心も技術も身体もバランスが大事だ。運動と読書で人間としてのバランスがとれる。そして、「人のことをあれこれ言うな。自分で責任をとる潔い人間になりなさい。まっすぐな人間であれ」と。
私は、鈴木先生が大好きになった。
あの頃、すでに先生は40代後半から50代くらいだったのだろうか。外見が老成していたから、小学生の目から見ると、おじいちゃんのように見えた。ハンプティダンプティのようなおじいちゃんを嫌いな子どもがいるだろうか。
鈴木先生の授業はまるで漫才を聞いているようだった。先生はたくさん雑学を知っていて、引き出しが多かったのだ。
鈴木先生のお陰で、一気に私の知的好奇心が花開いた。
先生は、本の音読と書き写しに特にこだわっていた。ちょっと古いやり方だが、徹底して名文の音読と書き写しを私たちにさせた。
それは後年、私の大きな財産となった。名文は声に出して読むと心地良いということを知ったのも先生のお陰だ。音楽のような名文を書き写す。先生は読むだけでなく、身体に文章を覚えこませようとした。良い文章を徹底的にマネすることが大切だと教えてもらった。
作文もたくさん書いた。文章を書くのを嫌う子どもが多いが、先生は、どの生徒の文章からも良い点を引き出し、それを伸ばす名人だった。
先生は、私が運動が嫌いで、作文が得意だとわかると、本の読み方や楽しみを語ってくれた。そして、君は才能があるから、もっと読んで、もっと書きなさいと励ましてくれた。
あきらかに鈴木先生の教育方針と、学校の方針とは相いれないものだった。学校としては、先生の存在を苦々しく思っていたかもしれない。
だけど、私は鈴木先生が大好きだった。
鈴木先生が来てから1年が過ぎ、小学校の最後の年が始まった。担任はもちろん鈴木先生だ。くだらない反省会をしなくていいし、私たちは大好きな鈴木先生に見送られて学校を卒業するはずだった。
子どもとは本当に視野が狭く、親や先生から助けられてばかりだ。大人たちがどれほどの思いを持っているかもわからないし、自分のことで精一杯だ。経験がないから、人を思いやる能力も少ない。
あの頃の先生の年齢に近くなった今なら、先生の苦悩がよくわかる。
夏休みが終わったころから、なんとなく先生の様子が変わった。
豪快でいつも笑っていた先生。一人一人に声をかけ、長所を伸ばしてくれた先生。運動で身体を強くしなさい、本で視野を広くしなさいと言っていた先生が、何も言わなくなった。
先生はぼんやりしていることが増え、教室は笑いが減った。
最初は何が変わったのかわからなかった。でも、確実に以前の先生とは違うのだ。
ある日、先生の様子がさらに変わっていた。
朝からなんとなく様子がおかしい。今まで通り授業をやっているのだが、なにかがおかしいのだ。でも、それが何であるかよくわからなかった。
顔が少し赤いようだ。熱でもあるのだろうか、目がうつろだ。
午後の授業が始まったが、先生は赤い顔でぼんやりしている。
そしてとうとう、「自習しなさい」と言って、教室を出ていってしまった。
生徒はみんな喜んでいた。先生の様子に触れる子は誰もいなかった。
気のせいかもしれない。
次の日、先生は学校を休んだ。
やっぱり風邪だったのかな? そう思った。
その次の日、先生は来た。でも、やはり顔が赤い。
少し饒舌になっていたが、目はあいかわらずうつろだった。
確実に、いつもの先生ではない。
私は違和感に押しつぶされそうになっていた。
その日の放課後、私は宿題を学校に置き忘れたことに気づいて、誰もいない教室に一人取りに帰った。
生徒のいない教室は、なんだか物悲しい。昼間の喧騒が嘘のようで、かえって静けさの密度が濃くなる。
私は自分の机から、宿題のプリントを取り出してランドセルにしまった。
ふと教卓に目がとまった。
「先生、大丈夫かな。どうしたんだろう」
私は何気なく教卓に近づいていった。
教壇に上がって、先生がいつもしているように教卓に手を置いて、生徒たちの様子を見るふりをしてみた。
「教室って、こんな風に先生からは見えるんだ……」
その時、教卓の下でキラッと何かが光った気がした。
「何だろう?」
茶色の瓶。
瓶には少し液体が入っている。
「?」
手に取って臭いをかいでみる。
「これって、お酒???」
父がお酒が大好きだったので、お酒の匂いはよくわかる。
でも、お酒と教室という組み合わせに、私は瓶をもったまましばらく固まっていた。
「先生が教室でお酒を飲んでいる?」
意外だった。
でも、先生、ずっと顔赤かったし、目もうつろだった。
ろれつが回っていないときもあった。すべてがつながってきた。
先生が教室で隠れてお酒を飲んでいる!
私が最初に思ったことは、バレたら先生、学校を辞めさせられるということだった。私は震える手で瓶を奥にしまった。
どうしよう? 親に相談しようかとも思ったけれど、そんなことしたら先生がクビになってしまう。
そうだ、黙っていよう……。
私は走って家に帰った。
翌日、私は何事もなかったように学校へ行き、先生の様子を伺った。
先生は相変わらず、目がうつろだった。精気のない表情。私は一人ドキドキしていた。教室での飲酒がばれないように、それだけを祈っていた。もう、勉強どころじゃない。先生の秘密を共有しているプレッシャーに勝手に苦しんでいた。
「ちょっと話したいことがある」
鈴木先生に呼び止められたとき、心臓が口から飛び出しそうになった。
どうしよう、私が瓶を見つけたことを先生は知ったんだ!
「お父さんに会いたい。今晩、伺いたいから、お父さんに予定を聞いてほしい」
「は、はい」
私は混乱していた。
「父に会いたい」とはどういうことか。
普通、学校の先生が親に会いたいというときは、子どもが悪いことをしたときと相場が決まっている。それも母ではなく、いきなり父に会いたいとは……。
私に唯一、思い当たることがあるとすれば、お酒の瓶を発見したことだ。
しかし、発見したことで私が叱られるのだろうか。
なんで父に会うのだろうか……。口止め? それとも?
あの頃の記憶は少し飛んでいる。
多分、あれから先生は父に会ったはずだ。だけど、その記憶がない。
結局、ある朝学校へ行ったら、鈴木先生はいなくなっていた。
「鈴木先生はご病気のため、急きょ学校をおやめになりました。これからは、私が担任になります」と他の先生が登壇し、すぐに授業が始まった。
お別れを言うこともなく、鈴木先生は跡形もなく消えた。
茶色の瓶とともに。
先生がいなくなったことを母に言うと、母は悲しそうに「そう」とだけ言った。
「ねえ、先生が家に来た理由は何だったの?」
何度もせがむ私に、母は重い口を開いたのだった。
「先生の息子さんがね、学校の柔道の授業で、同級生にふざけて柔道の技をかけられて、それで、ひどいケガをされたのよ。一人息子で大学も推薦で決まっていて、これからって楽しみにしていたときにねえ。
先生も悔しくて、どこに気持ちをぶつけていいかわからず苦しんでいたのよ。加害生徒に対する怒りと、加害生徒の将来を考える気持ちとの葛藤で、泣いていらした」
父は法律の仕事をしていたから、それで相談に来たのだった。
私は、茶色の瓶と関係がないことを知ってホッとすると同時に、鈴木先生の苦しみを何も理解していなかった自分を恥じた。
それっきり、誰も鈴木先生のことに触れなかった。
いつしか、私も心の深いところに鈴木先生の思い出を押し込めて、何事もなかったかのように小学校を卒業したのだった。
鈴木治さんは、あの息子さんだ。
40年近いときがたち、点と点がつながり、ようやく物事の全体像が見えたことに、私は深く心を動かされていた。私が見ていた先生と、息子さんや家族が見ていた先生、先生の立体像が浮かび上がってきた。
さらにメッセージは続く。
父は、僕がひどいケガをしてから、教師の仕事をやめました。本当に先生という仕事が大好きな人だったから、父は辛かったと思います。でも、僕を立ち直らせることに全人生をかけたのです。
医師が一生寝たきりになると言ったのに、父はそれを信じませんでした。僕の容態が安定すると、リハビリの鬼と化したのです。父は猛烈に人体について学びました。そして、賛同してくれる医師を見つけて、一縷の望みにかけて、僕を歩かせることに残りの人生をかけました。
本当に厳しかったな。なぐさめもせず、「おまえを一生養うつもりはない」と言い放ちました。僕自身、自分の身体を受け入れられず、自暴自棄になっているのに、泣き言を父は許しませんでした。お前が悪い、誰も恨むなと言ったのです。自分の味方になってくれない父を、随分恨んだものです。
父は教師をやめてから、小さな商店を始めました。退職金のすべてを使いはたしたと思います。父は教育者です。商売なんて全くしたこともなかったその父が、一生懸命、お客様に頭を下げていました。
結局のところ、それは僕が将来困らないように、生活の糧を手に入れられるようにしたかったのです。
僕は、少し身体に不自由は残りましたが、今、歩いています。やさしい女性と結婚もできました。
この年になり、あれらすべてが父の愛だと理解できるのです。
晩年、一度だけ、父は最後に受け持った生徒さんに悪いことをしたと言いました。突然やめてしまったことが、心残りだったのでしょう。
だから、今、僕があやまろうと思うのです。
申しわけありませんでした。あの頃の父を許してください。
そして、お父さん、本当にごめんなさい。あの頃の僕を許してください。