昔、人は、地球が宇宙の中心にあり、太陽も月も星も、その周りを回っていると考えていました。 それが天動説です。
けれど、多くの科学者たちの苦闘によって、地球もまた太陽の周りを回っているとする地動説が主流になっていきます。 いわゆる、「コペルニクス的転回」です。
この物語は、単なる科学の歴史にとどまりません。 私たちの心の成長とも、とてもよく似ているように思います。
私たちは、最初、天動説の中に生まれます。
自分が中心にいて、世界が自分の周りを回っているように感じる。 自分の気持ち、自分の痛み、自分の願い、自分の不満、自分の寂しさ。 それだけが、世界の中心にあるかのように感じています。
呼べば、誰かが来るべき。 不快であれば、誰かが取り除くべき。 お腹が空けば、誰かが満たすべき。 寒ければ、誰かが温めるべき。
赤ちゃんは泣きます。 世界の中心にいるからこそ、要求します。
それは自然なことです。 けれど、その感覚を大人になっても持ち続けると、人生は苦しくなります。
なぜ、親は私にこうしてくれなかったのか。 なぜ、夫は変わってくれないのか。 なぜ、友人は私を大切にしてくれないのか。 なぜ、社会は私を認めてくれないのか。
世界は、私を満たすべきもの。 人は、私を理解するべきもの。 出来事は、私に意味を与えるもの。
それは、幼い自我の天動説なのです。
けれど、その小さな世界にいつまでもいられないのが面白いところです。 要求はむなしく無視され、世界は思い通りには動かないからです。
親にも親の人生があり、兄弟には兄弟の人生があり、夫には夫の人生があり、友人には友人の人生がある。 みな、それぞれの軌道を回っています。
そして私たちは、気づかされます。
自分は、世界の中心ではなかった。 私もまた、太陽の周りを回る、ひとつの惑星だったのだ、と。
世界は、自分の願いを叶えるために存在しているわけではなかった。 そのとき、幼い天動説は一度崩れます。
自分もまた、その他大勢の中の一人だったのだと痛感する。 これは、ある意味で「落とされる」体験です。
少し痛いですが、誰もが通るトラウマならば、もはやそれはトラウマとは言えないでしょう。 むしろ、さっさと幻想を脱ぎ捨てた方がいいのです。
そこからが、本当の成長の始まりです。
天動説の自我は、世界を自分のために動かそうとします。 でも、幼い万能感から一度落とされることで、初めて見えてくるものがあります。
それは、自分の手で人生の主役の位置に戻りたいという願いです。
それは、自分の内側にある本当の中心を求めていく、ということです。
これが、心における地動説の始まりなのだと思います。
地球は、太陽の光と熱を受けて存在しています。 もし太陽がなければ、地球は今のようには存在できません。
水星も、金星も、火星も、木星も、土星も、みな太陽の周りを回っています。 それぞれが違う軌道を持ち、違う距離を持ち、違う働きを持ちながら、太陽を中心とした大きな秩序の中にあります。
ここでの太陽は、すべての惑星を照らし、それらをひとつの秩序の中に置く中心です。 私にとっては、全意識の象徴のように感じられます。
小さな私、つまり地球が、世界の中心である太陽を目指す。 幼い万能感ではなく、もっと深い中心感覚へ向かっていく。
小さな私から見たら、月には自分の感受性を、水星には自分の知性を、金星には自分の喜びを、火星には自分の意志や行動を見ているようなものかもしれません。 そして太陽には、本当の自分を投影している。
表層意識だけでなく、深層意識も含めた、もっと大きな私。 全体としての私を、私たちは感じたいのです。
けれど、それは完全にはつかめません。
なぜなら、太陽そのものになってしまったら、太陽を感じることはできないからです。 何かを理解すること、何かを感じること、何かを体験すること。 それは、部分であるからこそできることです。
一体というのは、イメージに過ぎません。
地球が地球という位置にあるからこそ、太陽の光を受け取ることができる。 太陽を見上げることができる。 その光の一端を、自分の場所でどう生きるかを学ぶことができる。
そこに、人生の面白さがあるのだろうと思います。
古い言葉で言えば、「分け御霊」という表現があります。
私たちは、太陽そのものではない。 でも、太陽の一端を、自分という形で表す存在なのかもしれません。
だから、太陽と相似形のことを、自分の内側で始めていくのがいいのだろうと思います。
誰かに照らしてもらうのを待つのではなく、 誰かに満たしてもらうのを待つのでもなく、 自分の中から、光や熱のようなものを発していく。
そこに、本当の深い満足感が生まれる。
地動説を通過した私は、生み出すことの中に深い満足があるのだと、どこかで知っているのです。
世界は、私のためだけに回っていない。 それは不当なことではありません。
私の中にも、太陽と相似形の働きがあるからです。 そのことに気づいていく旅を、私たちはしているのだと思います。
そして、不思議なことに、地動説をやりきると、最終的には、もう一度、天動説に戻ってくるのかもしれません。
もちろん、それは最初の天動説ではありません。
最初の天動説は、周りと分離した、傲慢さを含んだ中心感覚でした。 けれど、最後に戻ってくる天動説は、人生の中心にただ立っている感覚です。
私は、私の人生の中心にいる。 けれど、他の人もまた、それぞれの人生の中心にいる。
私が輝くことと、他の人が輝くことは矛盾しない。 私が中心に立つことと、他の天体たちがそれぞれの軌道で輝くことは、同時に成り立つのです。
人生は、自分が世界の中心だと思う幼い天動説から始まります。 やがて、自分もまた太陽の周りを回るひとつの惑星にすぎなかったのだという地動説へ落とされます。
けれど、それで終わらない。 そこから、太陽を求める旅が始まります。
太陽を知り、他の天体の軌道を知ったうえで、私は私の中心に立つ。 それが、成熟した天動説です。
科学の歴史と、心の成長は、どこか相似形を描いているように思います。
地球中心の宇宙観から、太陽中心の宇宙観へ。 そして、もう一度、自分という場所に戻ってくる。
私たちは、完全な太陽にはなれない。 けれど、「太陽の一端って、こんな感じじゃない?」と、表してみることはできます。
天動説と地動説が表裏になっているコースターから、そんなことを考えました。
